グイノ神父の説教 C年
C 年 待降節 と 四旬節
待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の降誕 夜半
四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
枝の主日
C 年 待降節
待降節第1主日 C年 2009年11月29日
エレミヤ書 33章14−16節 1テサロニケ 3章12節−4章2節 ルカ 21章25−28節、34−36節
今日から私達は典礼の新しい年をはじめます。 私達はベトレヘムを目指して、大きな喜びの日であるご降誕の祭日にむかって歩んでいます。 それでは、今日の福音が私達にすさまじい大異変の話を聞かせるのは何故でしょうか? 答えは単純です。 つまり、イエスは大規模な宇宙的大変動について語ります。 異邦人は太陽、月、星などが宇宙万物を支配する神々であると考えていました。 そこでこの時代のユダヤ人の心情では、太陽や月や星などが落ちる事は、偶像に対する唯一の神の決定的な勝利を告げるものでした。 このことは、私達が恐れている「世の終わり」と呼んでいるものとは、何の関係もありません。 イエスはただ預言者イザヤが約束した「新しい世界」の誕生を告げています。(イザヤ65章17節と66章22節) またイエスは予言者エレミヤが約束した「幸福」の実現をも告げています。(エレミヤ33章14−16節) イエスは自分の教えを理解させるために、当時の人々が知っている象徴を使います。 彼は苦難と暗黒の神秘を通して、創世記のような混沌から、新しい創造が浮かび上がってくると教えています。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13章8節)彼は人の子で、創造の業を完成しに来られるエンマヌエルです。 イエスは、私達の罪の故に、混沌としたこの世で、贖い主として実際に行動されます。 私達が彼の現存をこの世で見出せるように、イエスは全ての出来事に大きな注意を払って、観察して知るように招いています。 つまり私達は、思いがけない出来事の被害を甘受するのではなく、意識してありのままに承諾して、生きなければなりません。 私達はまたそういう出来事をイエスの言葉をもとにして解釈しなければなりません。 信仰と希望を持って、私達の生活のなかに、突発的な出来事のための場所を何時も残しておくべきでしょう。 「主、イエス、来て下さい」と絶えず祈る心の自由を、どんな事があっても保ち続けるように、私たちは学ばなければなりません。
ベトレヘムの夜の静寂の内に、キリストが密かに来られてから2000年になります。 彼は同じやり方で毎日、読まれ、黙想され、宣言される彼のみ言葉によって帰って来られます。 イエスは私達がいただく秘跡の内に本当に現存します。 信仰の眼差しを持つと、必ずこの世のすべての出来事の内にキリストを見つけるでしょう。 最後に、私達の死の時に、また時の終わりに、イエスは神の栄光と聖性のうちに、ご自分と共に私達を抱いてくださるために、帰って来られるでしょう。
ですからイエスは、私達に「頭を上げなさい」と言われます。 頭を上げるとは、神が私達と共におられ、神が私達を限りなく愛されるという希望に入ることです。 イエスはまた私達に「気をつけて注意しなさい」と求められます。 これは活気のある期待を意味します。 来るべき方を受け入れるために準備できていなければなりません。 つまり、それは、罪に束縛されず、徳で飾られた清い魂を保つ事です。 気をつけて注意していると言うことはまた、自分を注意深く見守る事で、第二の朗読において聖パウロが忠告しているように、進歩する事です。 言い換えれば、聖性、真理、神の正義は私達の心を満たし、私達の知識を照らし、私達の行動を導かなければなりません。 今日の福音が私達を招いているのは、実に、この大変動を自分のうちに行なうためです。 預言者たちとイエスが約束された新しい世界が遂に現れるように、私達は、新しい被造物とならなければなりません。 私達の警戒心は、神を前よりももっと愛し、私達のうちへの神の到来を激しく望むように追い立てられなければなりません。
「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところへ行き、一緒に住む。」(ヨ14章23節) そうです、その通りです。 もしこの待降節の期間中に、私達が回心を受け入れ、私達の生き方をきちんと整理するなら、私達の内にある混沌とした旧い世界は消え去って、イエスがその栄光の内に現れられるでしょう。 これこそがイエスがクリスマスの日に私達を満たそうと望まれる喜びです。 ですから、そのためによく準備できている人になりましょう。 アーメン。
待降節第2主日 C年 2009年12月6日
バルク書 5章1−9節 フィリピの信徒への手紙 1章4−6節、8−11節、 ルカ 3章1−6節
福音の様々の話を知っているから、私達はキリスト者なのではありません。 「羊飼いと占星術の博士たちは幼子イエスを見に来ました。 カナでイエスは水を葡萄酒にかえました。 イエスは病人を癒し、十字架上で亡くなりました。などなど・・・」 勿論これらすべては本当の事です。が、信仰は歴史の講義ではありません。 あまりにも度々、キリスト者は福音の表面的な理解に留まります。 が、これらの話は、全て、神のみ言葉です。 日常生活の中で、これらの話が私達を罪から開放し、神の方へ導き、救いに来られるキリストとの出会いとなるなら、この話は命の泉となるでしょう。
ですから、今日、ルカが私達に言う事を理解するように努めましょう。 「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリッポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニヤがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」と言う箇所です。 ルカは権力者すべての名前を述べます。 しかし彼らは預言者洗礼者ヨハネを通して、神が実現し始められた事を全く知りません。 神は権力のある人をよりどころとされる事は決してありません。 神は洗礼者ヨハネのような殆ど無名の、ひとつの声以外の何者でもないような人を選ばれます。 しかし、この世の様子が変化するのは、ヨハネが神に言われた事を注意深く聞くからです。 この世が約束された救いを見るのは、 ヨハネが神のご計画を実現するために、自分の命を引き渡すからです。
ヨハネは祭司の息子として、エルサレムの神殿で彼の父が典礼を行なったように出来たことでしょう。 しかし、罪の赦しのために、回心の洗礼を宣言しながら、ヨルダン地方を走り回るほうが彼にとっては好ましいです。 こんなわけで、福音の最初から、ルカは私達をイエスに出会わせる前に、私達の罪を認識するように、私達の生き方を変えながら、清められるように誘います。 もし私達がこの呼びかけを拒否するなら、この福音の箇所は、私達にとって何の役にも立ちません。 そして勿論、この話の教えの続きは理解できないでしょう。
ヨハネは実際、6世紀前に、預言者イザヤが言った事を宣言します。 このメッセージは、預言者バルクによる第1朗読の中で、繰り返され、細かく述べられています。 つまり、「主の道を準備せよ・・・すべての人は神の救いを見るであろう」と。 ヨハネはイザヤとバルクの中で既に言われた事を、繰り返しているように見えますが、彼のメッセージにはもっと重要な意味が含まれています。 それは50年の追放の後に、いつか、イスラエルの全地とエルサレムに帰って来る、自由になった追放者のことではありません。 私達を解放し、私達を救うために来られるのは、主ご自身です。 そして彼は私達のうちに来られます。 これは私達が先ず、主のところへ帰って来なければならない理由です! これこそヨハネが宣言する回心です。 これこそ回心のために、教会が提案する待降節の期間です。
ですから行動しなければなりません。 もし私達が傲慢に膨れ上がり、ひねくれた考えを抱いているとしたら、もし無関心にだらけているままにしているなら、またもし、偽善的な振る舞いを抱き続けるなら、神はどんな風にして、私達のうちに浸透し、私達のうちで行動出来るでしょうか? ヨハネは私達にただ重要な物事に対してだけ、つまり、キリストの到来に私たちの人生を開く事だけ勧めます。
この教えを受けながら、私達に語られたことと、それをよりよく実現する事をきちんと理解できるように、聖霊の光を願わなければなりません。 この待降節の間、私達が聞いている朗読の読書のすべてが、わたしたちが主の到来をよく準備する助けとなりますように! そして特に「神の栄光の光と喜びの内に」(バルク95−9)神と出会うために歩くように、み言葉が与えられているのを主に感謝する事を忘れないようにしましょう。 アーメン。
待降節第3主日 C年 2009年12月13日
ゼファニヤ3章14−18節 フィリピの信徒への手紙4章4−7節 ルカ3章10−18節
待降節は期待と喜びのときです。 そういうわけで教会はこの待降節の第3日曜日に、ご降誕の前もっての楽しみとして、喜びの中休みを望みました。 今日、喜びの日の典礼の色はピンクです。 ちょっとの間、私達の細々とした問題を忘れて、ばら色の人生を見るように教会は私達を招いています。
「喜び叫べ! 歓呼の声をあげよ! 喜びの声を上げ、心をあげて、はねまわれ! 主はあなたのなかに、おられる。 よろこびのうちに、あなたのことについて、よろこばれ、 あなたについて、よろこびいさまれる。 彼はあなたのために、喜びの叫びをあげて、おどられる!」と預言者ゼファニヤは私達に言います。(聖書バルバロ‐デル・コル預言者ゼファニヤ3章14節) そして聖パウロは次のように付け加えます。 「主において常に喜びなさい。 重ねて言います。 喜びなさい。」と。 預言者ゼファニヤと聖パウロが私達に話す喜びは、年の終わりの商業的な喜びがもたらす、不自然な幸福感ではありません。
全てを支える力を私達に与える喜びは、神ご自身からくるものです。 神が私達の永続的な客人となる時、彼が私達のうちにあって、自分の所にいるように感じる時、私達が彼のうちにあって自分のところにいると感じるとき、その時には完全な喜びが、私達の存在すべてから、溢れ出ることができます。 イエスのみ言葉は、私達のために実現します。 「私はあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。 その喜びをあなたがたから奪い去るものはいない。」(ヨハネ16章22節) 「父よ。 私の喜びが彼らの内に、満ち溢れるように!」(ヨ17章13節) 「私に対するあなたの愛が、彼らの内にあり、私も彼らのうちにいるようになるためです。」(ヨ17章26節)
洗礼者ヨハネは、私達が簡単に出来る事をするように、自分の好むものを分け与えてこの喜びを受けいれるように提案します。 「下着を2枚持っている者は、1枚も持たないものに分けてやれ。 食べ物を持っている者も同じようにせよ!」と言います。 喜びはまた、優しさ、自制心、憐れみからもたらされます。 「乱暴な事や誰かに害を与える事をせず、自分の持っているものだけで満足しなさい」と。 洗礼者ヨハネは自分の持っているものから、また、社会的身分から必要以上のものを引きださないように私達に求めます。 と言うのは、普通、2枚の下着を持っている者は、4枚持ちたいと望むからです。 よい地位についている者は、度々、皆、臆面もなく、より優れた地位を求めるからです。
洗礼者ヨハネはこのやり方をひっくり返そうとこころみます。 彼は、店で買い物をして、周りの人達にプレゼントをするようにとは提案しません。 むしろ、自分の心にまどろんでいる沢山の豊かさで、プレゼントをするように、すすめます。 それは身を捧げること、許すこと、分かち合うこと、他の人の心配をすること、これらのことが私たちに神の喜びを与えます!
「どんな事でも思い煩うのは止めなさい」(フィリピ4章6節)とパウロは言います。 それは主が私の近くにいる事が怖れを追い払うからです。 自分における主の現存なしに、この世界で生きようと望むことは、恐怖、ストレス、苦悩の中で生きるのを選ぶ事です。 確かに神が私たちの間に現存され、私達はしなければならない事を知っています。 それなら一体何をおそれるのですか?
預言者ゼファニヤ、聖パウロ、洗礼者ヨハネは私達に具体的な返事をくれました。 彼らの忠告に従って、私達は回心しましょう。 そして神の平和、つまり「あらゆる人知を越える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4章7節) 勿論、さらに、神の喜びが私達の心からあふれ出し、私達の行いを導くでしょう。 しかし、較べようもないこの喜びは、伝わり、広がりますから、私達に出会う人々が、その出会いを通して、「信じる喜び」の意味を理解できるようになります。 アーメン。
待降節第4主日 C年 2009年12月20日
ミカ書 5章1節−4節 ヘブライ人への手紙 10章5節―10節 ルカ 1章 39節―45節
マリアはこの世に救い主を与えると言う使命を受けたばかりです。 マリアは自分をまもるために、自分の家に引き籠ったりしません。 マリアはまた隣人からほめたたえられるために言いふらしたりはしません。 むしろ自分の体にあるオリーブのように小さいイエスの存在の神秘に、夢中になっています。 この神的な現存こそが、奉仕の道へと彼女をかりたてるのです。 マリアはとても謙遜に、長い旅を始めます。 彼女は老夫婦の赤ちゃんの出産まで、エリザベトの世話をしようと決心します。 神の呼びかけは、いつも一つの使命を与えます。 個人的な使命は何時も他の人に向かって派遣される事です。 マリアは、エリザベトの使命を喜びながら、自分固有の使命を実現します。 「私は主の召使です、」と言明したマリアは、具体的には「自分の従姉妹の召使」となります。
本当に祈る人は、同じように行ないます。 その人は、自分に閉じこもることはなく、見せびらかす事もありません。 謙遜に、自分以外の人からの秘密の呼びかけを、神との対話を通して見抜きます。 本当の祈りは、いつも他の人に使う力を与えます。 そういうわけで、ミサの奉献の祈りは何時も派遣によって終わります。 「行きましょう。 (あなたの兄弟にむかって) 主の平和の内に!」と。 今日、マリアとエリザベトはお互いに抱きあいます。 聖霊に満たされ、彼女たちは交互に神の賛美を歌います。 マリアは注意深くエリザベトの祈りの言葉を聴き、エリザベトはマリアの祈りと一つになります。 一つ一つのミサ祭儀は私達も同じように行なうように教えます。 共同祈願をよりよく捧げるために 私達はまず、予言者や使徒が私達に言った事を聞きます。 私達はまた、キリストの体をいただいてから、神に感謝するために まず、奉献文の大きな祈りを聞きます。 マリアとエリザベトの出会いは、私達にとって、祈りの模範です。
私達は、この二人の従姉妹たちの出会いは、単純な愛の訪問をはるかに超えていることを、しっかりと予感しています。 彼女達の一人ひとりは自分のうちに子供を持っています。 この子供たちは何でもない子供ではありません! 彼らは神に祝福された子供で、約束された子供です。 この子供たちにとって、神の権能は一人の若い婦人、乙女マリアにおいて示され、不妊の年老いた婦人、エリザベトにおいても示されました。 エリザベトの子供は、マリアの胎内の子供の現存に喜び、躍り始めます。 母の胎内にいるイエスは、繊細で、傷つきやすいですが、唯一つの彼の存在は、大きな歓喜と偉大な希望を皆に与えます。
マリアに近づき、彼女と共に祈るのは、私達のところへ彼女を招くことです。 ということはまた、私達の生活に聖霊の働きとイエスの実質的な現存を確認する事でもあります。 マリアは聖霊に満たされ、聖霊は彼女のうちに彼女の実存の最初の瞬間から働いています。 そして、彼女の心と祈りは、この聖霊に溢れ、彼女はイエスのことだけを考えています。 ですからマリアと共にする祈りは、私達のうちに、どうしても、聖霊とおん子イエスの現存を引き寄せるということは当然だということを易しく理解できるでしょう。
ご降誕の時に、神は幼子の姿で私達の所に来られます。 彼は救いの道を皆に開くために生まれるから、私達は喜びと希望をもって彼をお受けしなければなりません。 ですから聖霊の喜びが私達のうちに突然,侵入されるままにしましょう! 私達が他の人達にもっと、もっと仕えるために、イエスとマリアを受け入れましょう! こんな風に行ないながら、私達は「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1章45節参照)と言うのが聞こえる喜びを体験するでしょう。 または、それよりも、私たち自身マリアと共に、「力ある方が私に偉大な事をなさいました。 そのみ名は尊いです。」(ルカ1章49節) 更にまた、「私は主のはしためです。 お言葉通り、この身になりますように !」(ルカ1章38節)と言うほうが良いでしょう。 アーメン。
ご降誕の祭日 C年 2009年12月24日
イザヤ9章1−3,5,6節 テトスへの手紙2章11−14節 ルカ2章1−14節
皇帝アウグストゥスは人口調査を命令し、キリニウスを含めてあらゆる総督は、命令を受けるや否や、人々の間にこの命令を実施しました。 その結果、全ローマ帝国中で、人々は住民登録のために、移動しなければなりませんでした。 神は私達の歴史に結ばれているから、マリアとヨゼフと共に人々に同行されます。 神はひそかに人類と合流されます。 神は貧しい人々の家の戸をくぐりぬけて、私達のうちに住みに来られます。 ヘロデ、キリニウス、アウグストゥスなど、権力を持つこれらの人物は皆、神を見に来るために、移動しないでしょう。 ただ羊飼いや外国人、つまり東洋から来る占星術の博士達だけが、人間になられた神を観想する幸せを得ようとやって来ます。
この夜、私達のうちに来られたこの神の神秘を観想するために私達は集まります。 この新生児はインマヌエルと呼ばれます。 その意味は「私達のための神、私達を救う神、イエス」ということです。 イエスの誕生と共に、新しい世界が生まれました。 20世紀前から、神は私達と話すのに新しいやり方を始められました。 かつて神は, 預言者を通して語られました。 ご降誕からは、神はイエスにおいて人間の姿を取られるみ言葉になります。 これからは、神は私たちに、直接話しかけ、彼のすることはすべて、生きる言葉になります。 こういうわけで、この命の言葉を受けいれる人は皆、神の子になります。 非常に偉大な多くの聖人たちのなかで、この聖イレネオこそ、ご降誕の素晴しさを次の言葉で説明しようと試みた人です。 それは「神は人間が神となるために、人間になられました!」という言葉です。
イエスは世の救い主です。 というのは人間になる事で、彼はご自分の神性に属する資格を私達に与えられたからです。 この信じられない交換は、私達の信仰と喜びの源でさえあります。 世の初めから、神がお望みになったこの交換は、私達にとって、慈しみ、赦し、平和、聖性、永遠の命の源です。 私達が神からの最高の贈り物として、この神秘を謙遜に受けいれ、観想しなければならないのは、このような理由からです。 これこそ私たちの最も美しいクリスマス・プレゼントです! しかしながら、それを受けいれるか、断るかの自由は、私達一人ひとりに任されています。
私達キリスト者にとって、キリストを受けいれる事は、彼のうちにある神的な力のすべてを、一緒に、受け入れることです。 キリストを私達の人生の中心にすることは、つまり、そこを、愛の、赦しの力の、贖いと復活の場所にすることです。 ご降誕を祝う事は、つまり、心のドアを開きっぱなしにして、恒久的に、常時生きようと望むことです。 自分のうちにイエスを受け入れるとは、つまり、イエスとともに、イエスのうちに、イエスによって、世の平和と幸福になることです。 つまり、泣く人のために慰めと正義、疑う人のために希望と真理、暗闇にある人のために光と命の道、最後に、例外無しに、みなに余す所なく与える赦しとなることです。 イエスにおける信仰によって、神の子になった人が、その時から、すべての事において神のように行わなければなりません。 その人は、絶えず、神のみ言葉に支えられて行なう事しかできません。
ご降誕はそんなに複雑な神秘ではありません。 ご降誕を理解し、それを生きるために、私達は先ずこの神秘を信頼する人々を模範としなければなりません。 マリア、ヨセフ、羊飼い達、占星術の博士達はすべて理解したわけではありませんが、自分たちの心のうちにすべてを蘇えらせました。 なぜなら、彼らは先ずこの新生児、イエスについて、言われたことを聞いていて、後に、イエス自身が言われた事をすべて自分たちの耳で聞いて、理解しました。 そして私達もイエスや彼の証人たち皆の言う事を聞いて、私たち固有の神秘であるご降誕の神秘を、理解できます。 イエスは世の光ですから、自分の暗闇に留まらずに感謝しながらご降誕の神秘の光の中に、喜んで入りましょう。 神が私達にこれほど近くなられたからこそ、恐れずに私達も神に近寄り、神を自分の腕に抱き取り、私達の心にしっかりと抱きしめましょう。 今夜、祈りと礼拝のうちに、ご自分自身を私達に完全に与える神の喜びに満たされるままにしましょう。 それは私達も神に完全に属するためです。 アーメン
四旬節第1主日 C年 2010年2月21日
申命記 26章4−10節 ローマの信徒への手紙 10章8−13節 ルカ 4章1−13節
十戒を受ける前に、モーセは40日間、神と差し向かいで、山に留まりました。 神との親密さの中に慰めと激励を受ける前に、エリヤは40日40夜、歩きました。 ご自分の使命を始めるために必要な力を神から受けられる前に、イエスは御父に内密に話しかける場所である砂漠に、40日間留まりました。 私たちもまた、どれほど主を愛しているかを示すために、40日必要です。 この間に私達の内にある神から遠ざかる事すべてを、断念しなければなりません。 これは確かに試みの時であり、しかしながら特に罪に対する愛の勝利の時でもあります。
この四旬節の40日間を生きるには、聖霊が私たちを導くでしょう。 というのは、聖ルカが叙述している3つの誘惑に直面しなければならないからです。 これらの誘惑に打ち勝ちながら、私たちは清められ、強められて、神が自分たちのとても近くに居られると感じるでしょう。 聖ルカは人間同士の間を分かれさせ、神から人間を分離させる3つの誘惑を示しています。 まず、石をパンに変えたいと思うことです。 つまり、すべてを自分のものにしたいと望む欲望、石のように食べられない物さえも、全部、消化吸収したいと望むことです。 私たちに全く合わない物、私たちのために本当に適していない物に貪欲をもやすこと、つまり、自分の能力を越えて生きようと望むことは、嫉妬、恨み、怒り、苛立ちが生まれるに任せることです。 これらの罪すべては、私たちが渇望しても手に入らないものを所有する人達に面と向かって憎しみを生み出します。
第二の誘惑は、地上のすべての王国を支配したいと言う欲望を持つ事です。 つまり、自分の意思を人に押し付け、他の人達を自分だけの計画の実現に使いたいと望むことです。 それはまた、自分をどうしても必要な者とする欲望のため、自分を高く評価され、自分の言い分を聞かせ、相談され、拍手喝采されるように望むことです。 これらの渇望は自己愛、自尊心、利己主義、虚栄心、軽蔑を生み出します。 これらの罪が今度は、絶対的な高慢、つまり、人類に対する罪である悪魔自身の罪を生み出します。
最後に神が試みられる油断のならない誘惑があります。 つまり、神から楽な生活を得ようと、日常生活から問題や苦しみや病気を取り除くために、神を私たちに仕える方として望むことです。 このような私たちの目的を遂げるために神を使うという願望は、神を偶像とし、私たちを偽善者とします。 私たちの卑しいこせこせしたレベルに神を下げようと望みながら、「天におられる私たちの父よ、」と言うのは、神を馬鹿にする事です。 神を試みる事は、私たちを聖霊から遠ざけ、神に対する絶対的な信頼に、支障をきたします。 その結果、祈りはもはや決して賛美ではなく、拒否を許さない要求になり、絶対に実行する命令になります。 神に対するこの信仰の欠如は、不信、疑がい、霊的怠惰、結局、私たちに従わない神を捨てたいという避けがたい行動を起こす無関心を産み出します。
反対に、祈るとは、私たちの人生のあらゆる瞬間に、神と共に生きる力を私たちに与えてくださいと神に頼む事です。 祈るとは、夢見る人生、問題のない人生ではなく、神に信頼を置く人生を送らせてくださいと神に頼む事です。 祈るとは、出来るだけ、私たちがなるべき者となる可能性を発揮する恵と勇気を神に頼む事です。 この四旬節の期間が、次の事実をよく理解するよう助けてくれますように! というのは、私達がこの地上にいるのは、苦しむためでなく、苦しみなしに生きるためでもなく、あらゆる瞬間を神と共に、神の為に活動的に生きるためです。 そのことが分るために、40日間は長くはありません! 神と親しくなるのに、きっと、私たちは度々神のみ言葉を読んだり、聞いたり、黙想したりしなければならないでしょう!
私たちの自由を邪魔するものを全て奪い去りながら、もっとよく愛する方法を探しましょう。 同時に、自分の持っているものを分かち合い、私たちの周囲にいる人達に近づき、回心するように努力することで、神のもっとも愛する子供たち、義とされ、平和を味わっている子供たちとなりましょう。 アーメン。
四旬節第2主日 C年 2010年2月28日
創世記15章5−12節、17−18節 フィリピの信徒への手紙3章17節―4章1節 ルカ9章28−35節
神に対する信頼はこの四旬節第2主日の朗読の中心的テーマです。 アブラハムは神と共に契約を結ぶために自分の時代の祭式を完成します。 しかし彼は神秘的な眠りに落ち込み、神だけがこの契約を自分の責任において実行しようと誓います。 なぜなら神がアブラハムに求める唯一つの態度は、絶対的な信頼のみで、「アブラハムは主を信じた。 主はそれを彼の義と認められた。」と述べられています。 信じるとは、たとえ疑いや落胆や苦悩のなかにあっても、とことん信頼する事です。 これがアブラハムの態度です。
詩篇27の1節で私たちはこれと同様の信頼を表す歌を歌いました。 「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう? 主は私の命の砦、私は誰の前におののくことがあろう?」と。 喜びの中にあっても、悲しみの中にあっても、または試練のなかにあっても、不満のなかにあっても、私たちは主の「励ます主」としての現存を確信する以外ありません。
パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、この揺るがない信頼の必要性を思い出させています。 「しかし、私たちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。 キリストは私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3章20、21節) キリストが救い主として来られるのを待つとは、私たちが自分を信頼するのではなく、キリストだけに私たちの信頼を置くと言う事を意味します。
聖書の中で神もまた、山でイエスに従ってついて行った弟子たちに「彼の言う事を聞きなさい」つまり、「彼を信頼しなさい」と頼まれます。 事実、数日前にイエスは使徒たちにご自分の死を告げられました。 この告げられた事にショックを受けて、ペトロはイエスに反対しました。 それで彼は厳しい非難の言葉を受けます。 ペトロがキリストの信頼を失ったと考えて、ヤコブとヨハネはペトロに約束された栄誉のある地位を奪おうとして、キリストの叱責を利用します。 つまりキリストの右側と左側に座らせて欲しいと願います。 そこで、山の上でのイエスの祈りは、無理解なペトロと利己主義なヤコブとヨハネを癒されます。 祈っておられるうちに、イエスは彼らを信頼させるために、彼らの前で変容されました。 その時、ちょうど昔、アブラハムがそうであったように、3人の使徒もまた「眠りに打ちのめされ」ました。 この神秘的な眠りは彼らの内にある神の活動を指しています。 目覚めた時、光の雲の中から、御父の声が、変容された御子の神秘を彼らに啓示します。 「彼に聞きなさい」と。 これは哀れみのない支配者の命令ではなく、愛する御父の懇願です。 「これは私の子、彼に聞け。 彼を信頼しなさい」と神は弟子たちを導きます。
イエスのご変容の姿の前に呆然として、ペトロは勿論ヤコブとヨハネもずっとそこに留まる事を望みます。「先生、私たちがここにいるのは素晴しいことです。 仮小屋を3つ建てましょう。」と。 しかし、ルカは再び私たちに今回も次のように言うのを強調します。 「ペトロは自分でも何を言っているのかわからなかったのである」と。 実際、イエスに従う者はこの世の不幸や諸問題から安全であると思ってはなりません。 キリスト信者は毎日毎日、信頼と日常性のうちに、イエスと共に自分自身の変容に向かって生き、歩まなければならない事を知っています。 キリスト者は信頼をもって、イエスが人類全体の変容を実現されるのを待ち望みます。 このことはパウロがフィリピの信徒への手紙のなかで、思い出させています。
変容とは、毎日における愛に対する忠実さです。 イエスは生涯にわたって、御父の愛に対して忠実でした。 私たちもまた、それを具体的に生きなければならないということです。 残念な事に、私たちは神の栄光よりもむしろ人々が私たちに与える称賛や値打ちのない後光を好みます! ところで、この神の栄光は私たちにあります。 それは、イエスがご自分の死によって私たちに与えられた愛の勝利です。 この愛の中に沈みこんで、変容された状態で、喜びと信頼に輝いている者となりましょう。 そして特に絶え間なく神に栄光を帰しながら、私たちの信仰と希望の証しを、世に与えましょう。 アーメン。
四旬節第3主日 C年 2010年3月7日
出エジプト記 3章1−8,13−15節 コリントの信徒への手紙T 10章T−6、10−12節 ルカ 13章 T−9節
ファラオの子供として、エジプトの宮廷で成長したモーセは、一人の奴隷の命を救うために、逃亡中の殺人者となりました。 亡命中のモーセには、未来はありません。 しかし、神は突然、彼にご自分を現されます。 神はご自分の民の苦しみをご覧になり、モーセに彼らを解放するように命じられます。 エジプト人の手からモ−セが救わなければならないのは、一人の奴隷ではなく、すべての奴隷でした。 そこでモーセは二つの質問を神にします。 「私は何者ですか?」と「あなたはどなたですか?」です。 「私は何者でしょう? どうしてファラオの許に行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか?」(出エ3章11節) そして「もし彼らが私に『その名は一体なにか?』と問えば、彼らになんと答えるべきでしょうか?」(出エ3章13節)とたずねます。 第一の質問に対して 神は「あなたは殺人者だ」と言わないで むしろ「私はあなたと共にいる」と答えられます。 第2の質問に対して神はただ「私はある」と言われます。 つまり、「私は偶像ではなく、いのちです。 自分の民の近くに居る神、救う神、思いやりのある神です」と。(出エ3章14節参照)
「神は苦しむご自分の民を愛される!」 モーセに託されたこの啓示はイスラエルの民の信仰の基礎です。 それはまた、「神は私達のために愛によって苦しまれる!」という私たちの信仰の頂点でもあります。 これを知る事は、今日、福音のなかで言及する悪の神秘を熟考するために、土台になります。 神は永遠によいかたで、悪を全滅させ、私達を救うために、私たちと共におられます。 人類を襲う不幸の責任は神にあるとするのは冒涜的な言葉です。
「神に対して不平を言うのは止めなさい」とパウロはモーセに従った人々の悲劇的な宿命を思い出しながら言いました。 彼らの側につかれた神の引き続いての現存にも拘らず、みな砂漠で死にました。 民の上に襲いかかった不幸は 神が自分の民を見捨てられたわけではないとパウロは説明しています。 神はご自分の約束にずっと忠実のままですが、「彼らの大部分は神のみ心に適わず、荒野で滅ぼされてしまいました」。 不幸は彼ら自身の罪からきたのです。 聖書の第一章のときから、罪は死をもたらすと教えられています。 パウロは イエスが私たちを本当に罪の奴隷の状態から解放したと説明していますが、残念な事に、私たちはその罪の状態にまた落ち込んでしまいます。 私たちの側についていられる神の働きの現存や聖霊の絶え間ない助けにも拘らず、私たちには自分の不幸を作り出すものを選ぶ自由があります。
罪の側に歩む事は、死の道を選ぶ事です。 しかしながら、ある人に襲い掛かる不幸は、その人の、またはその両親の罪の結果ではないと、イエスは断言されます。(ヨハネ9章2,3節) 「あなたたちは 彼らがそのような災難に遭ったのは、他のどんな人よりも罪深い者だったからだと思うのか? 決してそうではないと私は言う」と言われます。 しかしながら、私たちは皆、罪人で何時か死ぬでしょう。 イエスは2回忠告を与えておられます。 「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。 そこで、イエスは私たちが回心するように、絶えず警戒するように、目覚めて祈るようにと勧めます。 よくない事は、誰にでも、いつでも、起こります。 ですから一人ひとりが自分一人ひとりの生き方に注意しなければなりません。 「立っていると思う(自分が強いと思う)者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10章12節)とパウロは言っています。
回心するとは、神の方へ心を向けることです。 神は人を赦され、倒れた者を立ち上がらせます。 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。 全ての人は神によって生きているからである。」(ルカ20章38節) 神は私達の幸せ、永遠の幸福を望まれます。 私たちの罪、不注意、霊的怠慢によって、絶えず私たちにもたらされる不幸せを私たちからもぎ取るために、神は私たちと共におられます。
イチジクの例え話の回心することが 緊急であるという呼びかけは 主ご自身の勇気付けを伴っていると、明白に述べています。 神はご自分の恵みを下さるのにけちではありません。 神は日毎に、ご自分の支えを私たちにくださいます。 よい園丁である神は、葡萄の木がよい実を結ぶために、うまずたゆまず、努力を払います。神は忍耐強く、果樹が成長し、実が熟するためには、時が必要である事をご存知です。 四旬節の時は、特に、神の恵みによって、何よりも先ず回心のよい実を結ぶように 私たちに与えられた時です。 アーメン。
四旬節第4主日 C年 2010年3月14日
ヨシュア記 5章9−12節 コリントの信徒への手紙U 5章17−21節 ルカ15章1−3節、11−32節
「この父にして、この子あり」このことわざは、今日の例え話の2人の息子にまったく合いません。 長男は父に対しても、弟に対しても同様に間違った関係しか持っていません。 彼にとって自分の父はボスであり、自分は雇い人だと思っています。 ですから「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています」とつぶやきます。 弟に対しては、軽蔑、嫉妬、ねたみしか示しません。 「あなたのあの息子が・・・」と父に言い返します。 時々神に対する、また、信仰においての兄弟に対する私たちの関係は、この長男に似ています。
弟は自分のものになる遺産を求める事で、自分の父が既に死んだかのごとくに振舞います。 彼の受け継いだ富は、極端な惨めさと落胆を与えたに過ぎません。 彼が家に帰ってきたのは、父に逢うためではなく、飢えで死なないように食べ物をもらうためでした。 この息子は本当に悔い改める心がないので、父の赦しを得るためではなく、自分を弁解するために、言葉を考え出します。 度々私たちはこの弟のように、神が存在しないかのように生き、悔い改めずに平気で神のもとへ戻ります。
例え話の父は自分の父性としての感情と責任を精一杯生きようとしています。 彼は自分から離れていく息子の自由を尊重します。 しかし彼は長男がしたようには、下の息子との関係を絶対に切りません。 反対に、忍耐強く彼の帰りを待ち構えています。 息子を見つけるや否や、走りよります。 当時、ユダヤ人社会では、貴族や身分の高い人が走るのはとんでもない事で、権威を持って歩かなければなりませんでした。 しかし例え話しの父は走ります。 というのは、自分の息子が、息子でない事を受け入れる事は出来ないからです。 この父の愛は二人に対して完全であり、無償で命を与えます。 「弟は死んでいたのに生き返った」と。 同時にこの父は、長男が自分の心と眼差しを変えることだけを促しながら、忍耐強く彼の侮辱に耐えます。 「私の物は全部お前のものだ」と。
勿論、私たちはこの二人の息子の態度に、私たち自身を見つけることが出来ますが、どちらであろうと、それはこの例え話の目的ではありません。 イエスが差し出されるメッセージの必要不可欠なものは、私たちはどうしても、自分の態度の中に神ご自身の振る舞いを再現しなければならないということです。 「あなた方の天の父の子となりなさい。 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせられる」「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」(マタイ5章。45.48節)
さて私たちにとって最も心苦しいのは、家族や親戚から見捨てられることや、対話の欠如や、恩義に対して忘恩で報いられる事です。 私たちの家族の内の誰かから、私たちとのすべての関係を断たれた時の私の反応は一体どんな風でしょうか? 怒りでしょうか? 復讐でしょうか? 落胆でしょうか? 私たちにとって条件なしの許しの言葉よりも、人を殺し傷つける言葉を見つけるのは簡単です。 私たちの口争いは、その時「目には目、歯には歯」となり、終わりのない喧嘩に発展します。
私たちの父である神は何も言われません。 神の沈黙は、期待、愛、赦しです。 神にたち戻る時、神は私たちの恥ずかしい過去を全く想起されません。 かえってご自分の喜びを分かち合おうと提案されます。 例え話の父が長男にしたように、愛すること、与えること、赦すこと、生かすことで、神に似たものとなる事を私たちに提案されます。 「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」と聖パウロは言いました。
この例え話が不完全であるのは、私たちがその続きを作り出すためです。 長男が祝いの雰囲気に入るかどうか、納得するかどうか全く分かりません。 そうして私たち自身も、自分の偏見や喧嘩や恨みの囚人となり続けるかどうか?を問われています。 むしろ神が完全であるように、私たちも完全であろうと努力するでしょうか? 私たちは愛にあふれる心を持たれる父の子となるために、すべてを尽くすでしょうか? 答えは私たち一人ひとりのうちにあります。 アーメン 。
四旬節第5主日 C年 2010年3月21日
イザヤ書 43章16−21節 フィリピの信徒への手紙 3章8−14節 ヨハネ 8章1−11節
朝早く、ファリサイ人たちは彼らが罠として利用する一人の女の死刑を求めます。 彼らは「先生、こういう女は石で打ち殺せと、モ−セは律法のなかで命じています」と言います。 事実、この律法は神が「私は悪人の死を喜ぶだろうか、生きる事を喜ぶ。」(エゼキエル18章23節)と明言されて以来、無効となっています。 もしイエスが「彼女に石を投げよ」と答えられたら、彼は当時、死刑の宣告を下す権利を持つロ−マの責任者に反する事になるでしょう。 もしイエスがこの女の死刑の宣告を拒絶するなら、イエスは姦通に同意し、律法を守らないという中傷が広まるのは簡単なことです。
この女は本当であろうと偽りであろうと姦通を非難され、憎しみの眼差しとイエスの慈しみの眼差しとの間に立たされ、震えています。 イエスは一言も言わずに、かがみこんで、地面に何か書いています。 聖書をよく知っているファリサイ人は、この象徴的な印を見て直ぐに、エレミヤの「私を離れる者の名前は土に書き記される。」(エレミヤ17章13節)と言う箇所を思い出しました。 地面に書かれたものは、風の最初のひと吹きでかき消されてしまいます。 多分、イエスは非難する人の名前を、年長者から始まって一人ひとり書かれたと思われています。
勿論、イエスのこの態度は、はっきりしたイエスの返事を得ようとくどく言い募るファリサイ人や律法学者たちをいらだたせました。 そこでイエスは身を起して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい!」と答えられます。 この答えでイエスはファリサイ人が作った状況をひっくり返します。 実際、死刑の判決が口にされる時、モーセの掟は次のように命じています。 「死刑の決行にあたっては、先ず証人が手を下し、次に民が全員手をくだす」(申命記17章5−7節)と。 もし、不倫の女について咎める人々が彼女に石を投げて殺すなら、すべての人の目の前で、ローマの法律に違反する者となるのみでなく、彼らはさらに殺してはならないと言う神の禁止の言葉を、公に投げ捨てる事です。 彼らの偽善の罪を前にして、皆、面目がつぶれて恥と卑下のうちに、うなだれて頭を低く下げ、去って行きました。
身を屈めていたイエスはもう一度立ち上がって、「婦人よ、あの人達はどこにいるのか?」と言われますが、この「婦人よ」と言う語はイエスが言われる時、何時も尊敬の言葉です。 イエスはサマリヤの女に対して使われ、カナにおいてまた十字架上でご自分の母に対して使われました。 律法学者に「こういう女は」と軽蔑をもってののしられた罪の女に対して、イエスは信頼を与える尊敬の眼差しを注がれます。 イエスはこのような告発者にも婦人にも、誰にも裁きを下されません。 かえって、一人ひとりに真実の、ずっと続ける回心へと誘います。 「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と婦人に言われます。 イエスは癒し、救うために来られました。 「私はだれをも裁かない」(ヨハネ8章15節)と書かれています。 ユダヤ人の考え方では「裁く」と言う言葉は「罪の宣告をする」と言う言葉と等しいです。
「行きなさい。 これからはもう罪を犯してはならない」 回心しないように神の憐れみを言い訳にする人々が、残念ですがこのキリストの忠告を無視します。 勿論神は慈しみ深く、犯した罪は神の働きを妨げる事は出来ません。 しかし改心しようと呼びかける神より、自分の罪を好む人が重大な結果をもたらすはずです。 「私に味方しない者は私に敵対している」(ルカ11章23節)とキリストは忠告しています。 私たちの永遠の救いは回心する努力にかかっており、さらにその努力のうえに、神は憐れみを豊かに注ぎ、それをまっとうします。 私たちはみな罪人です。 ですから時間のあるうちに回心しましょう。 ア−メン。
枝の主日 C年 2010年3月28日
イザヤ書 50章4−7節 フィリピの信徒への手紙 2章6−11節 ルカ 23章1−49節
今日、イエスのエルサレムへの入城を私たちは祝っています。 それにも拘らず、福音は既に受難の物語を話しています。 この長い受難を通して、イエスは独りぼっちになりますが、父なる神と深く一致しています。
「イエスを知っていたすべての人達と、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらの事を見ていた。」(ルカ23章49節)とルカは述べています。 エルサレム入城の時には、喜びを抱いて夢中になってイエスの傍に居た人達は、受難の時には彼から遠く離れます。 この人達が私たちよりも良いとか悪いとか言うことは出来ません。 彼らは私たちと同じような人で、イエスは彼らを赦しました。 彼等は私たちと同様で、イエスは彼らを愛しました。
この聖週間に、イエスが耐え忍んだ苦しみを前にして、教会は私達がいささかも動ぜず、無感動であるとか、あるいは強い感情や興奮を抱くようにとは勧めません。 むしろ、教会は謙遜に遠くに離れるようにと提案します。即ち,この歴史の流れを変えさせる出来事を前にして、私たちが正しい距離を置くようにということです。 私たちの信仰は、感情的ではなく活動的であるべきです。 私たちの希望は、消極的ではなく辛抱強くあるべきです。 キリストに対する私たちの愛は、言葉によるだけではなく、具体的な行いで表すべきです。
イエスはご自分の身に降りかかる暴力に対して、独りぼっちですが、澄み切った穏やかさを保っておられます。 イエスは非暴力というご自分の選択に対して、勇気をもって忠実であり続けます。 ご自分の人生のとことん終わりまで、人間に対する神の限りない尊敬を込めた愛を、イエスはあらわします。 勿論イエスは私たちの人間としての状況の弱さと苦悶を、血の汗を流すほどまで分かち合います。 しかしキリストの力は祈りからきます。 試練の真只中での一番辛い時に、イエスは息子として、自分の父である神とのコンタクトを祈りを通して持ち続けます。
この聖週間の間、愛と慈しみに溢れるイエスの心と一致するように、イエスをよく見ましょう。 イエスが十字架の道を歩む時、一歩また一歩と進みながら、ご自分の自由、癒しの力、柔和、赦し、罪人のためのとりなし、神の手の中に自分を委ねることなどを示して、私たち一人ひとりの為に無限の愛を実現します。
受難の物語を通して、イエスの優しい親切な眼差しによって、ペトロと共に心の回心を受けるように、ルカは私たちを招きます。 ルカはまたキレネのシモンと共に、イエスの十字架を背負って自分の足をキリストの 足跡にいれるように提案します。 さらに、ルカは良い強盗とイエスご自身と共に、私たちの父である神の手の中に、自分を委ねるように私たちに勧めます。 これらのすべての誘いに十分に答えるように、聖霊と母マリアの祈りが大きな助けとなりますように! アーメン。
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